昭和四十八年十一月二十九日 朝の御理解
御理解 第十九節「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる」 形が無くなったら、いうなら、魂の世界に金光様が入られたら、それは大谷の金光様へお参りさせてもろうて直ぐにお取次が頂けておった。
 金光様が形を亡くされた、おかくれになったら、どうなるんだろうかと言うような不安をもっておった者に対するこれは御理解であろうと思うのですけれども、金光様がおかくれになった、霊の働き、お徳を受けられた方の霊の働きというものを、教えられたのであろうと思うのです。
 金光様と称えるところに、金光大神のお取次を頂く事が出来る。生きた金光大神のお取次の働きを頂く事が出来ると私共は信ずべきだと思いますね。
 それから又金光様と言うて形が無くなったら、金光大神と称えるところに、金光大神が現れて下さるという事は、私共におかげを持ってきて下さるという事ではないという事です。今、お金が足りませんので金光様と言ったら、金光様がお金を持って来て下さる事じゃないと思う。
 病気をしておりますが、痛い、痒いという時に金光様と言えば金光様がすぐ、それを痛い、痒いを治して下さるという事ではないと思う。
 金光大神取次の働きが、そこからはじまるという事ですよね。そこで、私、昨夜遅うお風呂に入って、一寸風邪気味でしたから、三、四日入っていませんでしたから、昨日入って、そしてあまり髭がこうしておりましたから、髭を剃ってしもうてから、最後にこうやってから、安全剃りを綺麗に洗いよった。洗いよったら指を切ってしまった。そしたら血が止まりませんから、皆、寝こんどるとを又起こしてお神酒さんを持ってきてもらい、御神米をもってきてもらって、ここをはらせて頂いた。
 私共やっぱり、何かどうがすると、金光様、さあ御神米、御神酒とこういう事は、そこに金光大神を来てくれという事と同じ事なのです。
 金光様と称える、そこに金光大神の働きがね、はじまるという事はどういうことかというと、もう、私の心の中に、例えば、なら、指先をちょっと切っただけなのに、血が止まらん程しに血が、手を切ったという時でも、只、金光様と言うただけで、治してもらおうというのではない。金光様と称えるところから、金光大神の働きが、そこかに起こっておるのですから、私共は一番、今思うておった事を私は感ずるのです そして成程、神様がお気付下さるのは、よからぬ事を心に思っておるその瞬間に手を切っておる。まあ本当に思う事も出来ないなというようにです、厳しく金光大神の働きはそのようにあるのです。
 ですから金光様と称える時には、金光様という事は、そのままいうなら私は和らぎ賀ぶの権化であると思うです。
 和らぎ賀ぶ心の固まりなんだ、金光大神と言えば、だからそれが私の心の中に、流れこんでくる事だと思うです。結局、金光様の御信心をさして頂いとれば、金光様の御信心をさして頂いとれば、段々、段々、私共、和賀心、和らぎ賀ぶ心が、段々強くなっ行く事が金光様の御信心を頂いておる事だと思うです。
 これは金光教の信心さして頂く者の、最初の願いであると同時にやはり最後の願いだという事です。
 そこを目指す事が金光教の信心だと、その心、和賀心の如何におかげは伴てくるものでなからねばいけない。只、金光様、金光様お願いします、お願いしますと言うて頂くおかげの事であったらそれは金光様のおかげの事はいらない。石の地蔵さんば一生懸命拝んで、病気を治して下さいと言えば、そういう一生懸命の一心を出せば奇跡的ないわば、病気が治るとか、奇跡を受けられるとかのおかげは現れてくる。
 これは金光様の必要はない。金光様拝むからには、金光様の御心である精神であるそれを私共の心の中に抱いて行くという事である。
 金光大神を称える時にはです、なら、私が手を怪我して金光様という時には、その次には今思うた事に対する、今ちょっとでも思うた瞬間にもう手を切っておる。
 怪我しておる、実際どんな事思うたか今自分で忘れているのですけどね、その瞬間神様の喜びではなかったと自分ですから気づいたですけども、それははっきりわからいないけれども、それと入替えに、私の心の中に和賀心を取戻さして頂いとる。
 金光大神がそこに来て取次の働きを現して下さる。それはまあ普通ではね、まさかの折りには金光様~!が直ぐ出ます、よね。又出なければけない。
 時に奇跡的に助かったという意味にも、私はとれる。だからそういう意味にだけ考えている人も沢山あろうかと思うです。
 けどここでは違う、金光大神形が無うなられて、魂の世界に入られて、その魂の世界が、時間、空間を問わずに金光様、即そこに金光大神御取次の働きがあるのである和賀心が私の心の中に流れ込んでくる。
 金光大神が流れこんで下さる、そこに次の瞬間はお詫びという事にというようなところから、和らぎ賀の心を心の中に取り戻さして頂くと言ったような働きの事と頂いたが、本当ではないだろうかと私は今日思うです。
 お地蔵さまでも、何々様でもよい一心とを立つれば和賀心に神がござるからという意味での金光大神の働きという事ではないと思う。
 私は今朝方からもう、本当にもう有難い、有難い言うかそのもう、雰囲気というか目がさめてもそういう信心、そういう喜びの中に浸っているような、おれれるようなお夢を頂いた。というのはね、ある若い夫婦の方が、大学を卒業されて、そして東京へ出た。そして東京の真ん中てラ-メン屋を始めておると言うのです。
 そこに私はお客さんともつかずそこの何ともつかないけれども、私もその中にあるのです。もう小綺麗な別に飾り立てた店でもないのですけれども、実に品のよいお店である。もうお客様はいっぱい。もう真ん中には椅子がないから、立って待っておられる。それがもう実にそのなんというでしょうか、優雅な人達ばっかりなのです。
 ここの主人は大学を卒業してラ-メン屋をはじめられて、それが丼が他所のよりひと回り大きいのです。皆が頂いている。それが甘いという人には、これはちょっと味が辛過ぎるなと言っている人には、この次には念をいれましてからね、甘くさせて頂きましょう。
 辛いと立っている人には、いや甘いと立っている人にはこの次には少し辛口にさして頂きましょうとこう言っているわけです。
 もうそれがすきっとした東京弁を皆使っておるのです。それもお客さん同志がもう話しておる事、もう主人との話のやりとり、もうそれが何ともいえんその雰囲気なんです。それで真ん中に立っている人達がその注文したのが来てるのを待っていると頂いている人達が、ままここに自分の椅子を半分あけてここにお掛けになりませんですか、よかったら僕のこれを半分宛頂きましょうや、そしてその人がここのラ-メンの特長はこうですもんね、ああですもんね、ここんところがもう何ともいえんおいしい他所の類を見られないです。
 するとそのノレンがかかっているのがその暖簾にこのごろ金光様のお書き下げを頂いとるあの東京の兄さんが持って来て下さった「心」という屋号の店なのです。
 「心」というラ-メン屋です。その見事なあれが掛かっている。お客さん同志が話している事がもう、もうとにかくもうこの頃は、僕はここに来た時はもう来たとたんからここのファンになっしまって、ちっと廻り道になるけれども、月にいっぺんはどうでもここのラメ-ンを食べねば気がすまんのですよ。
 いや実は僕もそうなんですよと言ったような話合いがあって、その中に一人急ぐ人があるらしくて、急いで作ってくれないかと言っている。
 「はい、承知致しました」と、もうその言葉のやりとりの綺麗なこと、綺麗なこともう、本当に綺麗な言葉使いなんです。そしたら横で頂いている人が丁度ラ-メンが出来て持ってきとると、こう割り箸を割っていくのです。割ったばかりのところ、僕は今まで頂いてないのですから、お急ぎならばこれをどうぞ召し上れと言っているわけなんです。
 そしたらその人が、そうですか、僕は今日は急ぎますから、すみませんけれどと言うて割った割り箸を頂いてから、頂いている。
 いや、僕は急ぐのじゃないから、ゆっくりよいですからと言ってお客同志がね、もうそこの主人のいうならば、雰囲気というものがお客さん達の雰囲気にある。
 主人の心がお客さん達に通じておると言ったような感じなんです。成程、家のお客さんは、客筋が良い。と言うならそこの主人のいうならば、その主人のいうならば、私がお夢の中で頂いたのは、ラ-メン屋というのは、実に優雅な店なんです。
 その主人というのは大学を出ているから、いうならば、教養が溢れるような夫婦なのです。だからそこに集まっているお客さんが全部そのまま品のよい優雅な、言葉使いもいうなら、あなた、こなたというような感じのお客さんでいっぱいなんです。
 ラ-メンが持ち帰りが出来んのだけれども、お夢の中ではお持ち帰りも出来るようになっているわけです。それでラ-メン何人分作ってくれないかと、ハイ、ハイ承知しました。そしたらお客さんがそれを包装してあげているのです。
 忙しいから、いやどうもすみません。僕は手があいているからよいんだとかなんとかいうて包装してもって行ってやってる。もう、これを持って帰らないと家内やら子供達が待っておるんだというような事を言うて、お土産を持って帰っているのです。 そこへ田舎から出て来たという品のよいおじいさんとおばあさんが見えられんです そしたらそのお客さんがね、そのおじいさんとおばあさんに、この店の素晴らしい事、ここのラ-メンの本当のお客さん本位で、甘いという人には甘く、辛いという人には辛い、もう本当にこの店こそお客様本位なんですから、もうここははじめた時から大繁盛しているのですよと、そのおじいさんとお婆さんに話してあげているのです そしたらそのおじいさんおばあさんというのは、そこの主人のお父さんとお母さんらしいのでよ。
 もうあの子が大学を出て、東京へ出てラ-メン屋をいらくと言うから、どういう事だろうかと思うて、実は今日出て来たんですけれども、皆さんのこんなにも【  】を頂いて、こんなに繁盛頂いているんですから、もうあれに会えなくても、もう、安心して帰れますと言うて喜んで帰って、もうおばあさんと二人で、もうこれで安心したなと言うて喜んで帰っていかれるところなんです。
 まだいろいろ言葉のやりとりやらその雰囲気やらもう、私はその夢覚めても、まだその店に居るような感じ。もうなんという素晴らしい。
 そして私こういう例えば、働きこそが金光大神のお取次の働きというものが、このようにして現れてくることが、神の理想郷だなあと、私がしきりに思うておるところです。私はお客さん本位という事は、もう神様本位と思うです。
 お道の信心さして頂くものは、儲からなければならんとかどうとかいうものは、そんなものはさらさらない。それでいて大繁盛している。もうお客さんが番頭さんの替わりです。
 そしたらそこにお手伝いさん、小僧さんのごたる方が二、三人居るのです。
 それがね、名前が孝子ちゃんとか、孝行の孝という字、それから福ちゃんとかね、福岡の福ちゃん、それから孝子ちゃんに福ちゃんにね、それから幸子ちゃん、幸せの子、そういう人達がそのお手伝いさんであったり、小僧さんであったりしておる。
 そしてその主人というのが、誰に話すというともなく言うておるのが、あの、ですけども、ここの店の雰囲気を身につけたら、又心の何々の心のどこどこ支店といのを作るんです。だからここの店の流儀というものを、その作り方の流儀でなくてその、経営者の心得と言ったようなものを、いうなら、マスタ-したら、その支店、分店を作るんですよという話もしている。
 それが拡がっていく事が金光大神の世界だと。私は今日の金光大神、形が無うなったら来てくれというところに行ってやるとおっしゃるのをです、今日のお夢の中からそのようなふうに感じさせて頂いたんです。
 ラ-メン屋というのは大衆、大衆にいうならば、アピ-ルするというですか、大衆にあったということ。世の中のいうなら誰にでもこう合ったという意味だと思うです 東京という事はやはり中心だと思いました。なら、息子達がラ-メン屋を始めたからと田舎からお父さんお母さんが出て来て、その繁盛ぶりを見て、これで安心だと言うて帰られるのは、私は親神様だと思うた。私共の商売なら商売の生き方がです、もうお客さん本位、これが私はこの店の信条だというふうに本当にその主人が思いこんだら、私は天地の親神様が安心してくださると思うですね。
 もう儲けにゃおかんと言ったようなね、いうなら下策な心で商売しておるような、儲け出したいばっかりの商売というなら、神様は、いつまでたっても安心なさらんと思うですね。
 それは本当の繁盛をとげる事は出来ないからです。もう本当に甘口の方には甘口、辛口の方には辛口、もうそれこそ言葉使いもあなた、こなたといえるような雰囲気こそがです、和賀心の中心の人がいわゆるなしているところの商売の姿である。
 これは商売にかぎった事じゃない。私共は本当に、神様を中心に今申しあげた生活というのはです、商売出来るならは、お客様本位のいうならば、商売が出来るようになっ時に、はじめて神様を中心としたいうなら、親が安心して帰っておられるという事だと思うです。勿論神様が安心して下さるということは、こちらも安心という事なのです。安心の大みかげという事なのです。
 金光様の御信心さして頂くもの、究極のところ行きつくところは和賀心なのです。 それが和賀心にはじまって和賀心に終わるのです。何故って限りないからです。和賀心という心には。それに何ぞや、十年も二十年も信心さして頂きよっで、只、おかげならおかげというところだけが、はあ、金光様ちゃ有難いですよ、おかげだけに終始しとったんでは和賀心は一つも育っていかないでしょう。
 金光大神は来てくれというところに行ってやっとおっしゃる。それは金光大神そのものが、和賀心の権化なのです。和賀心の固まりなのです。その金光大神が私共の心の中に流れこんで下さるという事なのです。金光様と称える時にです、私の心に金光様のお取次の働きがはじまるのだ。
 そして苦しいなら苦しい、そこからです、成程こういうふうに苦しまねばならないところに詫びるところは詫び、めぐりのお取祓いはお取祓いとして、御礼申し上げる生き方。そこに金光大神の働きを心の中に感ずる事が出来る。
 今日私がお夢を頂いて、その実感をそのままにお伝えする事は出来ませんけれどももうその目が覚めても、その有難い雰囲気の中に居るような、感じで今日は御祈念さして頂いたんですけれども。
 私共の中心とする、なら私共を中心とする、御広前の雰囲気がです、そういう有難い雰囲気でいっぱいになるような、私という、ここに高橋さんなら高橋さんが居られる。三福というお寿司屋さんの雰囲気がです、もう本当にあなた、こなたの中にですお客さんが何しているか、いつまでも待ち長いじゃないか、待っておられるお客さんそのまま、待っている事が楽しいでこたえんといった感じなのです。
 そしてそのお客さんが、そのお店の為に協力して下さるというような感じなんです そういう例えば、その雰囲気を主人が持っておる。そこのいうならば、大学を出てからラ-メン屋をはじめているというその人がです、俺は大学出だと威張ったところがさらさらない。もうそれこそ、まあラ-メン屋といえば、仕事なら仕事でも余り品のよいそれではないと思うです。割烹とか料亭とかじゃない。けどもとてもそれが優雅な雰囲気の中に、いうような感じの中に、なら集まって来るお客さんも皆、優雅な人、しかもそこに集まって来るお客さん同志が手伝っておる。
 本当にこの店にはいっぺんは出てこなけれは気がすまんのですよと。いや、実は僕もそうなんですよいうようなお客さんでそうな繁盛しておるという事。
 金光様の信心さして頂くならそういう私は御用ぶりというか、お商売ならばそういう商売をさして頂きたいなあと思うです。
 只、売らんばかりの商売であったり、只、儲かりさえすればよいというのではなくて、そういう中から、もう儲けようとは思わんけれども、いわゆる大繁盛のおかげを頂いて、儲からさりゃおかんという働きの中に、その店がいうなら、どんどん、どんどん分店が出来て行くという。
 しかもその出て行く人も孝子ちゃんであり、福ちゃんであり、幸子ちゃんであるというような、いうならその繁盛を辿って行く。いわゆる金光大神働きの場というものが、そこにも、ここにも出来てくるというおかげ、もうどこにも金光大神の働きが、いうならば、金光様を称えるところに働きがはじまるような、おかげの場を作らせて頂くところに、私共信心の焦点というかね、金光様はそういう雰囲気の中にいよいよ働きようあんなさる事になるのだから、天地の親神様も、もうこの店は大丈夫、安心ここの主人に任せときゃもう心配いらんと両親が安心して帰っておられるように、神様が安心して頂けれる。私にはまず、すっきりという心の状態に私共がです、まず、なるという事なのです。もうどういう事であっても、和賀心を出して行く事に精進するという事なのです。
 もう、とにかくお客さんが喜んで下さればよいという精神なのです。
 金光様がおっしゃる、人が助かる事さえ出来ればという親神なんだ。そこに金光大神の働きが充分の働きを受ける事が出来ると思います。
 金光大神が無うなったら来てくれというところに行ってやるとおっしゃるのは、今日私が申しましたようなところに来て下さるのであり、来て下さるというのは、おかげは持って来て下さる。
 痛いのをすぐ治して下さるという意味ではなくて、金光大神取次の働きが、即、そこにはじまるという事である。
 私が夕べ、指の怪我をさして頂いた、金光様、さあ御神酒、御神米だということは金光様という事であろう。ならその傷がその場で癒えたという事ではなくて、そこに改まらせにゃおかんという働きが、金光大神の働きという事なんです。
 だから金光教の信心さして頂く者は、いわゆる、和賀心を目指すということから、和賀心を目指すというそこにつきるのです。
 和賀心にはじまり、和賀心に終わるのが金光教のそれが焦点でなければならないですね。どうぞ。